●宝永四年(1707)噴火

 宝永四年十一月二十三日(1707年12月16日)に富士山の南東斜面にあらたな火口(宝永火口)が開き,大規模かつ爆発的な噴火(宝永噴火)が発生した.この噴火については,江戸の近郊での事件ということもあって,数多くの記録・文書・絵図が残されている.それらの一部は武者(1943a)に採録されているが,その後も歴史学者による史料収集が続けられ,主として地元の県市町村史の中に採録され続けている.
 これらの史料にもとづいて,小山(2006)は宝永噴火の推移や特徴を以下のようにまとめている.
 1)宝永噴火は,宝永東海・南海地震(宝永四年十月四日,1707 年10 月28 日)の49 日後の宝永四年十一月二十三日(1707 年12 月16 日)正午前頃に発生し,宝永四年十二月九日(1708 年1 月1 日)未明の噴火停止まで16 日間に及んだ.
 2)噴火の10 数日前(1707 年12 月3 日頃)から,富士山東麓では毎日のように鳴動が感じられた.なお,宝永地震より前(宝永四年九月時分)から,富士山の山中では毎日幾度も小地震があったが山麓では感じなかったとの裾野市須山の記録もある.
 3)噴火前日の午後から裾野市須山と富士市吉原で頻繁に地震が感じられるようになった.夜になって群発地震の規模が拡大し,東麓一帯と小田原・沼津・元箱根・長野県下伊那郡・名古屋・江戸でも地震を感じた.噴火当日の早朝と噴火直前に,山麓ではとくに強い地震があった(ただし,地震による死者はなかった).なお,林・小山(2002)は,これらの前兆地震の規模と深さの推定を試み,マグマの上昇過程を検討している.
 4)噴火開始は1707 年12 月16 日(宝永四年十一月二十三日)10〜12 時頃である.富士山の植生限界付近に最初の火口が開いたと記述する史料が複数ある.
 5)噴火開始から2〜3 日間,江戸から長野県下伊那郡までの広い範囲にわたって,爆発的噴火に伴う空振とみられる戸・障子などの断続的な振動が発生し,原因を知り得ぬ人々に著しい不安を与えた.
 6)12 月16 日の日没頃,噴煙から降下する火山礫・火山灰の色は,それまでの白色または灰色から,黒色へと変化した.
 7)空振・雷鳴・噴煙目撃・降灰の激しさなどの記述から判断して,12 月16 日午後から17 日朝までが噴火のクライマックスである.このことは,現存する堆積物最下部(ユニットHo-I とHo-II:宮地,1984)に粗粒礫が多いことと調和的である.
 8)噴煙の目撃記録,空振・降砂の記述などから考えて,噴火がはっきりと小康状態になったと判断できる期間が,いくつかある.噴煙や空振がないという証言は朝から午前中に多く,降砂があったという記録は夕方から未明に多い.
 9)12 月17 日の夜明け前に,火口の南南東(沼津市原)にも一度だけ降灰した.
 10)17日の日没後まもなく,噴火期間中で最大と思われる地震があった.この地震は,伊勢・名古屋・長野県下伊那郡・江戸でも強震として記録されており,富士山付近ではそれよりやや強い揺れであったが,被害の報告はない.沖合でおきた宝永地震の余震のひとつか,富士山下のマグマ移動に伴ったとしても震源が深い地震と思われる.
 11)噴煙柱は,江戸,長野県下伊那郡,名古屋でもたびたび目撃された.江戸では,噴煙が火口から東方へたなびいていく様子が,噴火の全期間を通じて詳しく観察されている.
 12)夜間は,山麓一帯と元箱根・静岡市清水区付近から,火口上に立ち上る火柱や赤熱火山弾放出が目撃された.
 13)12 月16 日から19 日にかけて降礫が細かくまばらになっていったと解釈できる記述(小山町生土)がある.現存する堆積物下部(ユニットHo-I からHo-III 基底部にかけて)の粒径変化(概して上方細粒化)と調和的である.
 14)江戸においては,12月23 日を最後に空振や雷鳴の記述が途絶えたが,降砂の記録は28 日未明まで,噴煙の目撃記録は31 日昼まである.
 15)12 月25 日夕方頃から27 日昼(あるいはそれ以降)まで,噴火活動の高まりがあった.28 日までに噴火割れ目が上方に拡大したと解釈できる記述もあり,25〜27 日の噴火活動の高まりに対応するかもしれない.山麓の堆積物最上部(ユニットHo-IV)の粒径が中部(Ho-III)より粗いことも併せて考えると,25 日夕方以降,噴火の勢いがやや盛り返したと考えるのが自然である.
 16)12 月31 日夜に多少の爆発的噴火と火山弾放出があった.
 17)1708年1月1日未明の爆発を最後に噴火停止した.


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